個人事業主が初の雇用を検討する際に知るべき法務・税務・労務の基本
ギグエコノミーで活動する個人事業主の皆様にとって、事業拡大は大きな目標の一つです。事業の成長に伴い、一人で対応できる業務量を超え、外部の力を借りる必要が出てくることがあります。その際、業務委託ではなく「従業員を雇用する」という選択肢を検討される方もいらっしゃるでしょう。
従業員を雇用するということは、事業における新たなステージへの移行を意味しますが、同時に、個人事業主としてこれまで経験したことのない法務、税務、そして労務に関する様々な責任と義務が発生します。これらの知識がないまま雇用を進めると、予期せぬトラブルや法令違反のリスクを招く可能性があります。
本記事では、個人事業主が初めて従業員を雇用する際に最低限知っておくべき法務・税務・労務の基本と、具体的な対応ステップについて解説します。
雇用することの基本的な法務・税務・労務上の変化
これまで業務委託契約で外部に業務を依頼していた場合と異なり、従業員を雇用することで、以下のような基本的な変化が発生します。
- 労働基準法の適用: 従業員は労働基準法上の労働者として扱われます。労働時間、休憩、休日、賃金、解雇等に関して、労働基準法の規定を遵守する義務が生じます。
- 指揮命令権と従属性: 業務委託の場合、受託者は自身の裁量で業務を遂行するのが原則ですが、雇用の場合は事業主(使用者)が労働者に対して業務遂行に関する具体的な指揮命令を行うことができます。これにより、業務の進捗管理や教育などがより容易になりますが、労働時間や場所の拘束など、従属性が高まります。
- 社会保険・労働保険の加入義務: 一定の要件を満たす従業員を雇用する場合、原則として健康保険、厚生年金保険(合わせて社会保険と呼びます)、雇用保険、労災保険(合わせて労働保険と呼びます)への加入義務が生じます。これらの保険料の一部または全部を事業主が負担する必要があります。
- 源泉徴収義務の発生: 従業員に給与を支払う際、所得税や住民税などを給与から天引きし、国や自治体に納める義務(源泉徴収義務)が発生します。
具体的な対応ステップ(法務)
従業員を雇用するにあたって、まず労働者との間で「雇用契約」を結ぶ必要があります。
1. 雇用契約書の作成
労働基準法では、労働者と労働契約を締結する際に、特定の労働条件を明示することが義務付けられています(労働基準法第15条)。口頭での合意でも労働契約は成立しますが、後々のトラブル防止のためにも、必ず書面(雇用契約書または労働条件通知書)を作成し、労働者に交付することが強く推奨されます。
明示が義務付けられている主な項目は以下の通りです。
- 労働契約の期間
- 就業の場所、従事すべき業務
- 始業及び終業の時刻、所定労働時間を超える労働の有無、休憩時間、休日、休暇、労働者を二組以上に分けて就業させる場合の交替に関する事項
- 賃金(基本賃金、各種手当、割増賃金の率、計算方法、支払時期、昇給に関する事項)
- 退職に関する事項(解雇の事由を含む)
これらの項目は、労働基準法に定められた基準を下回ることはできません。
2. 就業規則の作成(常時10人以上の労働者を雇用する場合)
常時10人以上の労働者(パートタイムやアルバイトも含みます)を雇用する場合、就業規則を作成し、労働基準監督署に届け出る義務があります(労働基準法第89条)。就業規則には、労働時間、賃金、服務規律、懲戒、解雇等に関する事項を記載します。
就業規則は、労働者と事業主間のルールブックとなり、労使トラブルを未然に防ぐ上で非常に重要です。従業員が10人未満の場合でも、トラブル防止のために作成することが推奨されます。
具体的な対応ステップ(税務)
従業員を雇用すると、給与に関する税務手続きが発生します。
1. 給与計算と源泉徴収
毎月、従業員に給与を支払う際には、所得税と住民税を給与から天引きする必要があります。これが源泉徴収です。源泉徴収すべき所得税額は、国税庁が発行する「源泉徴収税額表」に基づいて計算します。住民税については、市区町村から通知される「給与支払報告書」に基づき計算します。
また、健康保険料、厚生年金保険料、雇用保険料なども給与から控除する必要があります。
2. 年末調整の実施
毎年年末には、従業員から回収した「給与所得者の扶養控除等(異動)申告書」や、生命保険料控除証明書、地震保険料控除証明書などを基に、その年の所得税の過不足を精算する年末調整を行う必要があります。従業員は原則として確定申告が不要となります。
3. 税務署への届出
従業員に対して給与の支払いを開始する際には、原則として税務署に対し「給与支払事務所等の開設届出書」を提出する必要があります。
源泉徴収した所得税は、原則として給与を支払った月の翌月10日までに税務署に納付します。従業員が常時10人未満の事業所は、申請により、源泉所得税を半年分まとめて納付する「納期の特例」を利用することができます。
具体的な対応ステップ(労務・社会保険)
従業員を雇用した場合、労働保険と社会保険への加入手続きが必要です。
1. 労働保険(労災保険・雇用保険)への加入手続き
- 労災保険: 労働者を一人でも使用する事業は、業種・規模の如何を問わず、強制適用事業となります。労働保険関係成立届を労働基準監督署に提出し、保険関係を成立させる必要があります。保険料は全額事業主負担です。
- 雇用保険: 原則として、以下の両方の要件を満たす労働者を雇用した場合に加入義務が生じます。
- 1週間の所定労働時間が20時間以上であること
- 31日以上引き続き雇用されることが見込まれること
事業所を管轄するハローワークに「雇用保険適用事業所設置届」などを提出する必要があります。保険料は事業主と労働者で負担します。
2. 社会保険(健康保険・厚生年金保険)への加入手続き
以下のいずれかに該当する事業所は、原則として社会保険の強制適用事業所となります。
- 法人事業所
- 常時5人以上の従業員を使用する個人事業所(一部の業種を除く)
強制適用事業所となった場合、事業主は健康保険・厚生年金保険の適用事業所となるための手続きを日本年金機構(または健康保険組合)で行う必要があります。加入要件を満たす従業員は、原則として全員被保険者となります。保険料は事業主と被保険者(従業員)で折半して負担します。
個人事業主の場合、常時5人未満の事業所であれば強制適用ではありませんが、従業員の半数以上が同意すれば任意で適用事業所となることができます。
留意点・落とし穴
従業員を雇用する際には、以下のような点に注意が必要です。
- 労働条件の明示: 雇用契約書に記載する労働条件は明確にし、労働基準法に違反していないか確認してください。特に、みなし残業代制度などを導入する場合は、計算方法や対象となる労働時間などを正確に記載する必要があります。
- 労働時間管理: 労働者の労働時間は正確に管理する義務があります。タイムカードや勤怠管理システムなどを導入し、記録を残すようにしてください。法定労働時間や残業時間の上限規制にも留意が必要です。
- 社会保険の適用逃れ: 従業員の加入要件を満たしているにも関わらず社会保険に加入させないことは法令違反です。遡って加入を求められる場合があり、多額の保険料負担が生じる可能性があります。
- 専門家への相談: 法務、税務、労務の各分野は複雑であり、特に初めての雇用においては判断に迷う場面が多く発生します。社会保険労務士は労務管理や社会保険手続きの専門家であり、税理士は税務手続きや給与計算の専門家です。早めの段階でこれらの専門家に相談し、適切なアドバイスやサポートを受けることを強く推奨します。
まとめ
個人事業主が従業員を雇用することは、事業拡大のための重要なステップですが、同時に法務、税務、労務に関する新たな責任と義務を伴います。労働基準法に基づいた労働条件の整備、雇用契約書の作成、就業規則の検討といった法務的な側面、給与計算、源泉徴収、年末調整といった税務的な側面、そして労働保険・社会保険への加入手続きといった労務的な側面について、基本的な知識を身につけ、適切な手続きを行うことが不可欠です。
これらの手続きは多岐にわたり複雑に感じるかもしれませんが、専門家である社会保険労務士や税理士のサポートを借りることで、スムーズに進めることが可能です。初めての雇用に際しては、これらの専門家へ相談することを積極的に検討し、法令遵守と従業員が安心して働ける環境づくりに努めてください。これが、事業の持続的な成長と、新たな仲間と共に成功を収めるための基盤となります。